岡山県産のおかやまです

ただのイタい日記

”おわり”と共に続いていく人生の中で。

11月11日、小学校5年生から12年間続けたハンドボール競技に一つ、区切りがついた。不思議と悔しさは感じることが出来なかったように思う。この一年、僕のハンドボールの最前線はPCの前であり、ひたすらデータや動画と向き合うことに情熱をを注いでいたことで、自然と整理をつけることが出来たのかもしれない。よく言えば自己俯瞰、悪く言えば”あきらめ”ともいえるかもしれない。

 

お世話になった人に活躍していることを報告できなかった不甲斐なさはあったものの、青春を賭してやり切れたことに対する満足した気持ちがあった。

今思えば、僕が精神的に成長する隣には、いつもハンドボール。半生を彩った青春と葛藤を生み出した苦悶の象徴だ。きっとハンドボールがなければ、今の僕はないだろう。少なくともエゴと驕りに溢れ、もっと幼稚な思考をしていたに違いない。今の僕を3割くらいは形作っているんじゃないだろうか。

 

他人に褒められる成績でもなく、特段、美談になるようなストーリーがあるわけでもない。怠惰に身を任せ甘んじたことも1度や2度ではない。楽しいことよりも、辛い、悔しいという思い出のほうが多い。偏った思想への反発をこらえ、怒りに震えた夜もある。自分の実力不足を虚しく感じたことも多々ある。

 

それでも、やりきったといえる。

区切りの時期を迎えたからこそ、振り返ってまとめておこうと思う。僕の半生を彩り、多くの学びを残し、友人や恩師、尊敬できる人々との出会いを創り出したハンドボールへの手向けとして。

 

 

ハンドボールとの出会い

思い起こせばハンドボールを始めたのは、小学校5年生の時、たまたまチラシで見かけたハンドボール体験会に参加してからだった。スポーツ好きな両親の勧めと、変わったことがしたいという興味からたまたま参加した。

広島の実業団メイプルレッズの選手に褒められたのがうれしくて、すぐに入団を決めた。それがハンドボールとの出会いだった。週一回3時間練習のみ小さなチーム。ジャイアンのような6年生の先輩や、”悪ガキ”というのがとてもよく似合う同期、後輩とルールもよくわからないながらも、必死にボールを追いかけたのをよく覚えている。初めての試合で44-4の大差負けを喫したのも今では笑い話である。下手くそなりに練習して、最後の大会で優勝し、西日本大会に出ることが出来たことが競技としてハンドボールを続けていくことを決めた出来事だった。レベルの高い選手に憧れ、大舞台での活躍を夢見て、一つの習い事から、競技としてハンドボールを続けたいと思うようになった。

 

当時、指導してくれた選手や保護者、コーチ達は今でも、僕のことを覚えてくれている。親戚の子供をかわいがるような距離感で、たくさんの人達に支えられて、のびのびと、ハンドボールしていた時期だ。変にくそ真面目で引っ込み思案だった僕を、わが子のようにかわいがり、面倒を見てくれた彼らには感謝してもしきれない。ありがとうございます。

 

今思えば、今までハンドボールを続けてこられたのは、この時期に多くの人に助けてもらったという思いが大きい気がする。心の底から、活躍して恩返しをしたいと思ったし、失望させたくないという思いから、辞めるという選択肢を踏みとどまることが出来た。彼らとの繋がりを切らないためにハンドボールに縋ってたのかもしれない。

それほど、こんな僕に関わってくれた人たちに思い入れがあるのだろう。今ではあんな大人になりたいと思う。

ハンドボールで恩返しは叶わなかったのかもしれないけど、違った形でそれを実現することが今の目標だ。

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競技として、頑張り始めた中学生

そして中学生になった僕は一つの問題に直面する。ハンドボールを続ける環境がなくなったのだ。部活はなく、チームに残るメンバーも同期一人。当時は特に深く考えていなかったけど、2人だけで、小学生の隣で、ちょちょっとした練習しかしてなかった。

この時期は、さまざまなことに手を出した。くそ真面目な性格から、勉強に打ち込んだり、ソフトテニス部に入ってみたり、ラノベ読んだり、ゲームしたり、ゲーセンでふらふらしたり…普通のありきたりな中学生をしていた。

 

強いて言うならハンドボールと同時に始めたラグビーを頑張っていたかもしれない。もやし体系だったのに最前列のフォワードに属し、一番にタックルに行き、ラインアウトでは持ち上げられ、投げ飛ばされ、ルールもわからず…無心でやっていたような気がする。ここでも印象に残る出会いがあった。阿座上君という当時のキャプテンである。どれだけ負けていても、身体にケガを負っていても、必死に大声を出し、走り回り、チームを盛り上げ続けるすごい人だった。彼は僕のことを覚えていないだろうけど、その姿は今の僕に多大な影響を与えている。

意志の力は、問題を軽々と超えていくだけの力がある。熱量は他人を動かすだけのエネルギーを秘めている。彼の意志を最大限生かせるようなチーム作り、試合への準備がしたいと思った。それだけはすごく覚えている。

 

 

時が進み、ハンドボールチームを作れるだけの後輩が、入ってきてくれた。奇跡的にメンバーが集まり、チームを作ることが出来た。これも奇跡だった。もともといたメンバーではポジションが1つ足りなかった。たまたま京都のチームにいた選手が広島に引っ越してきて、チームに入ってくれた。これがなければポジションがそろうことはなかったかもしれない。

あれこれ手を出したために、ハンドボールラグビーソフトテニス、3足の草鞋を履いていた時期もあった。

さすがに時間的に厳しかった。基本的には土日に試合や練習が立て込んで、スケジュールが合わないことが多かった。耐えかねてソフトテニス部を辞めた。それでもハンドボールに充てる時間は少なく、焦りを感じながら、もどかしい思いを胸に、練習や試合を重ねた。それに伴いラグビーにコミットできなくなったのもあったのであろう。チームになじめなくなり、練習に行くのも辛くなった。そしてラグビーも途中でやめた。

 

2つのチームを辞めるにあたって、とても悲しい思いをしたのはとても覚えている。途中で投げ出すことに対して、今までの練習も、関わってくれた人も、何もかも、無くなってしまうような気がして。原因はすべて自分にあるのだが、どうにもできない自分の無力感を呪った。それを取り返すように、よりハンドボールの結果に対しての、貪欲になっていったように思う。何か形にしなければ、すべて無駄になってしまう。そのために、絶対に結果を残すんだと考えていた。

思えばこの考えが間違いで、自分の首を絞めつけることになる。

 

本格的に始動した中学クラブチームの発起人として、キャプテンを任されたのも初めての経験。慣れないキャプテンとしての役割に、行き当たりばったりながら、阿座上君ならどうするだろう。と日々自問自答しながら、不器用にチームをまとめ、必死に取り組んでいたように思う。そんな僕に、当時の監督である津島先生、小学校の監督をしていた渡辺先生、チームの保護者の方々は手探りで僕のわがままに答えてくれた。決められたルートを通ることより、日々0から1を創り出す。そんな毎日だった。ほとんどわがままを通してもらっているだけだったけど、一番イキイキとハンドボールをしていたかもしれない。

 

ただチームに結果を残すことはできなかった。ぼこぼこに負けるようなチームを何とかして、それなりに形にした。そんな中学生だったような気がする。でも僕にとっては、毎日がクリエイティブでチャレンジに溢れた刺激的な毎日だった。

 

一緒に歩んでくれた海斗にはすごく感謝している。練習試合だけど、大学生になって一度、試合ができたときはすごくうれしかった。中学生のころからずっと夢見てたからこそ、ただの練習試合だけど特別な時間だった。ありがとう。

 

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悩み続けた高校生

 

楽しかった思いと同時に、より結果に飢えた僕は、強豪校に進学して、結果に直結する環境を求めた。もはや盲目的だったかもしれない。そして法政二高に進学する。法政二高はハンドボールをやる環境としては申し分なかった。名立たる肩書を引っ提げて入学する同期、二高文化を体現し、強いチームを遂行する先輩たち、的確な指導をする安倍先生。どれをとっても一級品だった。その結果としてチームは全国3位という結果を残す。

卒業して数年後には全国三冠を成し遂げた事とから結果を出すには、最適な環境だったのかもしれない。

 

しかしまた、僕は特段結果を残すことはなかった。

僕自身も、ハンドボールのスキルだけでなく、言われたことをきちんと遂行する、努力を徹底的に実行する、他人のためにできることをやる、いろんなことを学び、身に着けたと思う。最もハンドボール選手として成長した時期だ。

しかし、最も自分に嘘をつき続けた時期でもある。

変に生真面目な性格が祟ったのか、馬鹿正直に指導を鵜呑みにすれば、何とかなると思い込んでいた。

 

結果を求めるあまり虚栄心の塊になり、部活特有のマウントの取り合いに精神を削り、できない自分と監督の叱咤にひどく落ち込み、事実と感情の見分けがつかなくなった。ネガティブが許されない環境が違和感を感じた。

チームにはネガティブ思考を一切排斥する文化があり、落ち込んでいる自分すら排除しなければならなかった。

元来僕は、事象をすべて自分の中で飲み込んで分解して、考えを深め、行動するタイプだったが、チームカラーは即行動、即ポジティブだった。それに合わせようとしたのが1つ目の嘘。

自身の自己認知と虚栄心の差から目を背けたのが2つ目の嘘。

焦燥した精神と前向きなチームに合わせようとした板挟みの中で3つ目の嘘をついた。

そして、結果に結びつかないような努力まで、思考を捨ててアホみたいに取り組みケガを重ねた。これが4つ目の嘘。

数えればきりがない。そんな心と体が一致しない状態で、いいパフォーマンスが出るはずもなく、「まあまあいいんだけど、一流ではないよね」みたいな評価に終わったような気がする。

今思えば、チームカラーや監督の評価方針に、合わせた”ふり”をして自己研鑽を積めばよかったんだと思うが、当時の僕にそんな器用な真似は出来なかった。

スポーツ選手の次男、三男が多い理由が少しだけ分かった気がする。

その余裕を持てれば、少しはいい結果を残すことが出来たのかもしれない。

 

虚勢を張り続けた同期、阿部先生には申し訳なかったと今では思う。本気で本音をさらしている”ふり”をしていた僕を、何度も救おうとしてくれた。ただそれにこたえるだけの器用さと、思考力をどこかにおいて来てしまった。ほんとに申し訳ない。そのなかでも本気で日本一を目指して頑張れた日々は僕にとってかけがえのない思い出です。ありがとうございました。

 

こうして3年間、毎日自分につき続けた嘘が積み重なり、卒業するころには、自我のない空っぽの、自己否定の塊が出来上がった。半ば躁鬱なのかもしれない。

 

この時点でハンドボールはもう大嫌いだった。自分自身も大嫌いだった。逃げ出したくてたまらなかった。空っぽの自分の中に、当たり障りない人畜無害なキャラを入れて無難に過ごしていた。

でも自己否定のまま終わりたくなかった。そして、いまだに結果への未練があった。自分の自我を形作りたかった。

そして大学でも続けることを選んだ。

今思えば、自分を好きになるために、続ける事を選んだんだと思う。そんなの幼稚園児や小学生のうちに済ませることなんだろうけど、残念ながら、後回しにし続けたツケが回ってきた。

このまま終われば、一生自分のことを好きになれない。どこかでそう感じていたんだと思う。

 

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 自我にもがいた大学生

 

そうして、大学でもハンドボールを続けることを選んだのだが、入部時4年に北川さんにコテンパンに叱られる。今ではいい思い出だし、あれがなければ気配りのできない人間のままだったろう。しかし当時は、何とか怒られないようにすることで必死だった。何をしても結局怒られるので変わらないんだけど。さらにハンドボールが嫌いになりそうだった。でも逆に行動し続けることを求められる環境で、よかったのかもしれない。鬱々と考え込む時間が減り、やるしかないと思えるからだ。そう思うと、人間的にも、精神的にも上向きにさせてくれた北川さんにはとても感謝している。もう二度と怒られたくはないけど。

 

肩をケガしたのもこの時期だったかな。高校時代にパワーにかまけたプレーを繰り返したために、入部時には、肩はボロボロだった。正直、4年生までボールを投げることが出来て、それだけでも本当にうれしく思う。リハビリ施設に通い続けた4年間でもあった。施設のコーチの方々には感謝しきれない。大学4年の最後の1か月は、ハンドボール人生の中で最も、身体の質が良かったと言い切れる。それほど尽力してくれた。発揮する機会はなかったけど、最後まで付き合っていただきありがとうございました。

 

先輩が引退すると、反動で少しぐれた。目に見える形でぐれた訳ではないけれど、自分が一番偉いんだと虚栄心が出まくった。自分のことを好きになれない僕が自衛しようと必死だったのかもしれない。自己中心的だったし、何もかも適当にこなして無難に過ごした。悪い大人にひっかかりそうになった。クソみたいな言動を何回も繰り返した。おかげで彼女にもフラれた。ハンドボールも頑張ってるふりをしてた。親にも「そんなダメならやめたら?」と呆れられた。幸い、根が真面目だから変にぐれなかったのが良かったと思う。灰色の人生ってああいうことを言うんだなと思う。

 

でもそれをやったことで、自我が少し芽生えた。何が好きで、何が嫌いで、どんなことが楽しくて、どんなことがつまらなくて、どんな人と一緒にいるのが幸せで、どんな大人になりたくて、興味ある分野はこれで、その分野で好きな本や映画はこれで、何のために頑張れて、どうでもいいことにしがみついてる自分を馬鹿にして、自分の欲を最大限に引き出せるように無理をして…

 

 

自分を無限に拡大して誇張していった結果、その真ん中にある小さな自分の自我がやっと見えてきたような気がする。本来なら、わがままな幼稚園児時代に済ませるようなことを20歳過ぎてからやった。今思うと恥ずかしい事ばかりだ。でも僕には必要な時期だった。もはやハンドボールではないけど。だからこそちゃんと恩返ししたい。やっと等身大になり始めた僕に、迷惑をかけた皆に恩返しをさせてほしいなと思う。

 

友人、部活のメンバー、ゼミ等々、周囲には多大な迷惑をかけたと思います。それでも見捨てずに、僕と関わってくれたことに感謝します。そして、隣で叱り続けてくれた人たちにも感謝します。ありがとうございます。叙々苑は待っててください。すぐに稼いで連れていきます。ランチ行きましょう。

 

結局、自我を獲得し始めたころには、一つ上の先輩が引退し、最後の冬がやってき始めていた。もう引退まで1年を切っている時期である。加えて就活もやってきた。

それでもこの1年は、一番自分らしくハンドボールに向き合うことが出来たんじゃないかと思う。就活で自我を明確にしてからはさらに、楽しく練習することが出来た。

ただ下手くそなのはそうすぐに変わるものじゃないし、目に見えた結果が出た訳でもない。チームはうまくまとまらず、秋には入替戦まで行った。

自分自身もくそ真面目にやりすぎたし、何よりエゴがなさ過ぎて、自己主張に向いてない笑、強気を保つだけでも一苦労な性格は、120%の成果を発揮し辛い。いまさらながらスポーツに向いてない、対戦型の競技に向いてない性格してるなあと思う。

そんな自分も受け入れて、それでも毎日上を向いて、昨日より少し良くなれるように、前向きに自分らしく頑張れた1年だった。

 

チームにも、データとか動画で少しくらいは貢献できたのかな?と思う。ハンドボールを続けていて一番身についたのが、「データと動画をいじること」というのもまた変な話だけど。僕にしかない価値を少しでも生み出せたならうれしい。気づけば趣味になっていたし、ある意味、天職じゃないけど、得意分野と苦手分野なのかなと今では思っている。

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そして何より、後輩に頼りきりの1年間だった。特に同じポジションの後輩たちにはすごく助けられた。みんな僕にはない良さを持っているし、野心がある。へらへらしているけど、常に前向きに努力している姿は、一番近くで見てきたつもりだ。誤解を招くキャラが多いけど、根は真面目なんだから、その野心を前面に出して、充実したハンドボールをしてほしい。応援しています。

 

そんな感じで最後の1年を終えた。引退だからと特別なことは何もない。自分らしく最後の1年はハンドボールできたよというだけの話。

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おわりに

 

半泣きで書いてるこの文章も、後々見返すと、「俺、イタイやつだな」「恥ずかしいな」「きっしょ。」と思うかもしれないけど、これが等身大の僕のハンドボール人生であり、僕の”おわり”だ。

結果として12年ハンドボールを続けて、得たものは”自我”という事になるんだけど。

幼稚園児がぎゃんぎゃん泣きわめいて得るものを、遅れて12年かけて得るというくそ不器用なある大学生の半生である。

 

そして、ハンドボールが終わっても、どれだけ泣いても、どれだけ恥ずかしくても、どれだけ悔しくても、人生の中の1つのコンテンツがおわっただけで、これからも続いていく。11日は特別な日じゃなくて、ただの日曜日だ。強いて言うならポッキーの日だ。

なんら特別なものじゃなくて、みんなに平等に訪れるもので、

だからこそ、精一杯の今と、あっさりとしたおわりを共有してくれる人を大切にしたい。自分の好きなヒト、モノ、コトを一生懸命大切にしようと思う。

なんかかっこよく言うなら、当たり前のようにおわりを迎えて、当たり前のようにこれからも生きていきたい。そんな引退でした。

 

そして末筆ながら、両親、妹を始め、僕を献身的に支えてくれた家族に大きな感謝を込めて。

言葉にしづらいから、ブログにしてしまいました。とても感謝しています。ありがとうございました。

家族への感謝でこの記事を締めさせていただきます。

 

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