岡山県産のおかやまです

ただのイタい日記

「お前の人生辛そう」って言われてからいろいろあって虎に転生しかけた話

「お前の人生辛そうだよな」


気づけば社会人になって3ヶ月、いろいろあったがなんだかんだ楽しくしている。はず。

学生の時より酒は飲めなくなった。
シーシャは酸欠になる。
筋トレは学生の時よりももっとするようになった。
趣味に使う時間が増えた。
美術館楽しい。
動画作りが金になった嬉しい。
営業はなんだかんだ楽しい。
知らない世界を知れるのは面白い。
覚えることは大量。
ランチ後はクソほど眠い。
新聞と本を読むことが増えた。
呟きがめっちゃ増えた。
出来るなら無限に寝たい。
自己表現とロジカルシンキングの下手さ遅さを痛感する。
給料使って遊ぶの楽しい。
毎月給与を使い切る生活。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。

文字面だけ見るとなんか楽しそうな新卒社員って感じ。若さとパッションyeah。
だが、釈然としない。気分が晴れない。
なんかつっかえている感じが取れない。それなりの晴れやかな希望の中に閉塞感がある。そんな感じ。

周囲を見渡せば他社に就職した友人達は、飲みの席が辛い、仕事がつまらない、太った、酒を飲まなきゃやってらんない、ゴルフだけが楽しい、残業がやばい終電でしか帰れない、今日も始発、同期飲みサイコーウェイ、みたいな人もいる。
大抵SNSに現れなくなったりもする。
辛すぎてベッドの上でアメーバみたいになってる人も、
打ち砕かれた自意識の中に、会社の文化を突っ込んで柄にないこと酷いことをしちゃう人もたくさん。
まだ僕は人の形、自分の形を保っているだけ僕は幸せなのかもしれない。
しかし、そういう崖のような絶望感とは違う、
じわじわと締め上げられるような閉塞感をなんとなく感じていた。

 

 

またこれが厄介者で正体が分からないものは解決どころか、誰かに相談したり、言葉にすることも難しい。
僕は勝手に「自分のやりたいこと」が出来てないから。まだ未熟だから。と適当な理由をつけてほったらかしていた。
この「自分が成長していないから」論が僕の悪い癖だ。
自己責任といえば聞こえがいいが、何もかもうやむやにしてしまう。

そんなある日、同期に
「お前の人生辛そうだよな」
と言われた。
ここ1年くらいで僕が何度も聞いた言葉だ。どうやら他人から見ると僕の人生今の生活は辛そうに見えるらしい。

このセリフ自体が特に珍しいとかショックだったというわけではない。月1くらいで言われているセリフだし。
ただ、新入社員になってから出会った2ヶ月ちょっとの付き合いで言われたということが見逃せないポイントだった。
このセリフを吐くのは、中の良い友人もしくは恩師くらいで割と僕の境遇を知っている人たちだ。
会社でおおっぴらに自己開示も出来ていないと自分では感じているし、自分の境遇について事細かに話したこともないのに、
そんなセリフを言わせてしまうということは全身から、「辛そう感」が出まくっているのではないのか?
確かに無表情無感情で画面を眺めているときはある。でもそれほどか?
そういえば土日が楽しみじゃないときもあるな。
自覚していないだけで、自分はつらい子ちゃんになっているのでは?
自意識過剰かな?
いや確かに閉塞感はあるな…?
前よりも全然マシだと思っていた今の生活で、それを言われるって何事だww

という感じで個人的には笑いこけていたのだが、冷静になってみて改善してみようと思った。
とりあえず僕は幸せにならんといかん。
何が幸せかも、何が辛いのかもよく分からんけど。
そろそろ自分の幸せを追っかけないと不幸なおじさんになりそう。
という行き遅れの婚活女子みたいな切迫感溢れるモチベーションで、フラフラと自己内省を始めた。そんな岐路に立った僕のログ。

 

そもそも何故、”しんどい、辛い”という自覚がないんだろう。


とりあえず、僕には我慢しているという自覚がない。なので、”しんどい、辛い”という感覚があんまりない。
本当にしんどくなって、「嫌だなあ」が長期間積もり積もってやっと顔に出たり、数時間経ってから気持ちが沈んだりする。
だいたい表情が最初に死ぬ。顔が老ける。
原因はなんだろうと考えてみた。

昔から他人の顔色を伺える子供だった。
子供の頃から何度も繰り返してしまったために、他人の顔色を伺えすぎてしまうようになった。身についてしまった悲しいスキルである。
自慢ではないが、顔を見ればその人がどんな感情なのかある程度汲み取ることができる。
何も発言しなくても、その人が言いたげなことをある程度ならば汲み取ることができる。
そんなもんで、周囲を優先してしまい、自分の意思を蔑ろにしすぎているらしい。
小さい頃から、親、先生、友人、監督、それぞれの支配者が決めたルール、私欲を優先する人の顔色を全力で守って、自分の意思なく過ごしていたような気がする。俗にいう優等生タイプの子だ。
承認欲求が強かったのだろう。
そして挫折した。
承認欲求を行動の指針にすると、自分の人生を生きることができない。他人に利用されるだけされてポイだ。
そこから過剰な承認欲求が大嫌いになった。
だが自分の意思はない。という宙ぶらりんな状態になった。
なおさら人畜無害というか水に流される笹舟感が強くなった。

我慢しすぎて自我が失せるという感覚は部活動を引退するかしないかというあたりで気づいていたので、可能性としてすぐに思いついた。
もしかすると、まだここから脱却できていないのかもしれない。
だから自分の思いを汲み取ることが苦手なのかもしれない。


まだ自我がなくて無意識に焦っているという可能性もある。
また今の会社に入ってから、3ヶ月の感想だが、社内が個性と自立に溢れてキラキラしている。
体育会時代は「エゴの水中戦」と名付けていたのだが、自分の主張を水面下で調整し合いマウントを取り合う世界だったのに対して、
会社は「自我の動物園」だと思う。そしてどの自我も個性がありすぎる。議論を行動目標に掲げているだけあって主張することが基本、そこから話合いとか調整を始めるのだ。個々人の幸せではなく「私達の幸せ」を追いかけるために役割を果たす。それが僕にはすごく魅力的に見える。
僕は中身空っぽのつぎはぎ状態なので、少しそんな環境に焦ってしまった自分もいるのかもしれない。
ちょっと無理をして、何か出さなければと気張っている側面もあるのかもしれない。


こんな仮説を持ちながら、壁打ちをしてみることにした。
自分の感覚はあてにならない。
今の環境を俯瞰して、事実をいろんな人に投げつけて聞いてみた。
「この環境、あなただったら辛い?」
ということを探るためだ、
同期に限らず、酒を飲む友人、初めましての人、両親、高校の友達、中学の友達、先輩、後輩…色々当たってみた。
その中で見えてきたのは、やっぱり
「言いたいことが発信できていないんじゃないか」
「その思いをちゃんと、発信したらいいじゃないか」
「自分が悪いかもしれないから言うのをやめておこう、と言うフィルターは外した方がいい」
と言うコメントをもらった。
親には
「あんた我慢してるのわかるけど、何を我慢しているのか分からないからやめた方がいいよ」
とまで言われた。見透かされている。笑
とりあえず、好き嫌いから、自己発信してみることにした。

 

「言いたいこと」を言う魔力


さてはて、そんなことを考えた僕はここ最近、好き嫌いベースで関わる人に伝えるようにした。
もちろん無理のないペースで、本音で、情報を文章に落とすところから、言葉に出せるスピードになるまで。
自分の欲求が満たされる形になるかどうかは決められないが、言わずにいるよりもずっと楽になった気がする。
やっぱり焦る中に居続けるのはしんどかったようだ。自分のペースでできるのはとても居心地がいい。

もちろん周囲との軋轢が生まれることもある。
今まで「主張してこない人」と言うポジションにいたから、変化した僕に環境はすぐにはフィットせず、辛い思いをしたり、言いたいことを全て言えなかったりするけども、その刺激も楽しかったりする。
僕は徐々に「言いたいこと」を言える魔力に取り憑かれた。そして、謎の充足感を感じ始めた。
特に何にも変えていないのに、言いたいことが言えるだけで自分がちょっと成長できたような感じがした。
それは好き、それは嫌いって、言ってるだけなのにね。

こんなことをやっていれば、自分の周囲は好きな人、好きなものでのみ構成されるようになる。
居心地のいい環境が生まれる。
これはこれですごく幸せなことで、言ってしまえば「生きているだけで楽しい」って感じになる。
自分が主張をしていけば、それが理想的な環境を生み出せると信じて疑わなかった。
自分の責任で判断することで、自分の人生を自分の管理下にとり戻していくような感覚で嬉しかった。
これを続けていれば、気持ちよくこの閉塞感から抜け出せると思い込んでいた。


虎になる


自分の主張を発信し、好きなもので周囲を埋めて、居心地の良い世界はとても楽しかった。
過去の「主張しない自分」が作った周囲の環境とぶつかることは多かったが、それも時期なくなるだろうと思っていた。
打倒閉塞感!目指せ主張のできる奴!と調子に乗っていた。
反面、顔は疲れていたらしいので周囲とのぶつかり合いに疲弊していたのかもしれない。
そんな感じで過ごしていたらこんな記事に出会った。

 

https://note.mu/okaki_tabetai/n/n0a784b08b1b2

togetter.com

 

 

中学校だったか、国語の授業で取り扱った山月記である。
「李徴氏ではないか」のアレである。
虎になるあの話である。
同世代は皆が通った「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のアレである。
中学生の時にこれが刺さった人とは仲良くなれる気がする。

ざっくりと山月記とこの記事の概要を説明すると、
山月記
貧しい家庭出身だが努力家で高い能力を持っている李徴が、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のために社会を離れ、居心地の良い自分の世界に篭ったことで虎になってしまう。虎になった李徴が親しかった袁傪に出会い、過去を振り返る物語

・いつか怪物になるわたしへ
自我を確立し、自己と周囲の線引きができるようになったことで、好きなように生きられるようになった。しかしその延長線には虎になることが見えてしまった。自我の確立は虎への変化の始まり。

二つとも長い文章ではないのでぜひ読んでほしい。

この記事を読んで、ぶん殴られたような気持ちになった。衝撃的だった。
自我を得ることは良いことだと思っていた。それが自分をよりよくするものだと思っていた。楽しい世界へのチケットだと思い込んでいた。しかしながらそれは虎への入り口でもあったのだ。
本当に苦手だった、ルールを作って思い通りに動く人を集めたいエゴや、過剰な私利私欲、行きすぎた承認欲求。
今まで良いようにされてきた顔色を伺ってきた人たちを虎とするならば、今の延長線上に、「苦手だった人になってしまう自分」が存在してしまうことになる。
そして何を隠そう、心当たりがあるのである。

ninohand.hatenablog.com

部活を引退した際に書いたこのブログを見てもらえればわかるが、まさに「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」
まさに李徴氏なのである。
この先、自分が本当に虎になってしまう可能性は高そうだ。

いつか虎になるのだろう、と「いつか怪物になるわたしへ」ではまとめられているが、僕の場合はもっと直近でやってくるだろう。
抗うとかそういう問題ではなく、近いうちにすんなりと虎になり、大嫌いだった人達のような側面を備えてしまう。
それはとても嫌だ。死んでも嫌だ。
紆余曲折あっていろんなことを経験してからならまだわかるが、どストレートでそこに向かうのは虎純度が高すぎる。
僕と同じような思いをしてしまう人が、周囲に生まれてしまうのは本当に避けたかった。
居心地の良い今の環境と、虎になりたくない恐怖感で板挟みになった僕は、
また何も言えなくなってしまった。

自我への憧れと、気持ち悪さが同居しているので気持ちが迷子になる。
僕は何も言えないけど、以前の主張で変わり始めた環境は黙ってない。
まあまあきついヘイトをとばしてくる輩もちらほらいた。
「お前が悪い」理論を展開してくるし、それに乗っかってしまいかける自分も見え隠れした。これに乗ると自己責任の一言で方が付くし。
中途半端に”幸せ”と”しんどい、辛い”という感覚をつかんでしまったために、麻痺していた時よりも辛い時期がやってきた。


あえて「何者」にもならない(ようにしたい)


それでも毎日は進んでいくし、社会は回る。
新米社会人見習いなので仕事はやってくるし、スケジュールは消化されていく。

不本意ながら、また笹舟のようにそれっぽく流れる生活を続けていた僕に、
To be型人間とBeing人間がいるという話をしてくれる人がいた。
文脈的には全然違う営業戦略の話だったんだけれど、それが腑に落ちた。

To be型人間はなりたい姿がある人達、明確な目標があるので、それに向かってまっすぐに進んでいける人達のこと
Being型人間はなりたい状態がある人達、楽しいとか成長しているとか、そういう感覚の方を大切にしている人達のこと
僕は完全にbeingだ
自我を得た結果の環境が楽しいのであって、自我を持っているのが嬉しいわけではない。
成し遂げたいことがあるのではなく、成し遂げた過程や結果によって人達が喜んでくれることが理想である。

なのでお気持ちが伴えば、なんでも良いというのが正直なところだ。
自我を得るのも、虎になるのもいらない。自分と自分の関わる人がよりよく居られることに力を注ぎたい。
目的を達成するというto beの視点からすれば無駄に見えるかもしれないようなことに、価値を感じている。

なのに勘違いをして、「自我を形作る」とか「虎にならない」みたいな目的を追っているような感じになってしまっていた。


会社は個性を大切にするので、よく「石垣のように個性が組み合わさった組織」と言われている。
石垣になるには、石でなければならないとおもいこんでいた。
決して石である必要はない。
何者でもないけど、石垣に乗っかることが出来ると思うのだ。
とりあえずは柔軟な苔にでもなろうと思う。
キラキラした個性への憧れをリスペクトこそあれど、とりあえず否定しておく。

苔生す。

 

虎になる原因は受け入れる情報、かかわる人の同質化から起きるものだと思う。
似たようなものばかりと一緒にいると虎になると考えている。
だが、自我はできてしまったので、何かを選ぶときに、選り好みすることもあるかもしれない。
だから好き嫌いとか興味のある無しの基準ではなくて、体力的に行けるかどうかで決めようと思う。苦手なものでも体力があれば行けるし、好きなものなら夜中でも疲れてても行ける。
とりあえずやるのは得意だ。
身の回りにあるものはとりあえず拾っておくマンになる。

こんな感じでそこそこ楽しく生きれて、虎にならずにしばらく生きられたらいいなぁと思う。結局、自分の意思を求め続けていたのに、そこまで強固な自我を作らないという選択をした。何者にもなれないことを嘆き煽る今のカルチャーで、あえて「何者」にもならない選択を楽しんでみたいと思うのだ。

そしていつの日か虎になったときに、
ちゃんとブン殴ってくれるような、ある意味「やべえ人」と仲良くしたい。
我こそは岡山を殴りたいぞ!という人は今のうちに連絡をください。